感覚の先鋭化、雑念の排除、興奮の鎮静

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幻覚としての音場、音像

 Jon BalkeのBook of Velocitiesは、たとえ疲労した肉体にアルコールが回っていたとしても、その響きによって感覚は一気に研ぎ澄まされ、先鋭化していきます。稠密なグレイスケールに、淡い色彩がかすかに重なっていくような艶やかな表現は、背景のマットに漂う複雑な響きの綾によっていっそう際立ちます。ざわついていた心から雑念が消え、オーバーヒート気味の思考回路から熱が抜けて昼間の興奮が沈静化されていくようです。見えない音像を耳が見つめています。ここには抒情的であったり感傷的であったりする旋律はなく、抽象的な音階の断片んが並んでいるだけです。

 ピカソの『裸婦』のような、激情と鎮静が抽象的に交錯する世界のように、聴く者、見る者にとって、自分を消し去り無に近づけてくれる力があるような気がします。過去のある時、ある場所で演奏された音楽が録音され、エンジニアの感性によってメディアの中にパッケージングされ、聴き手はオーディオ装置でそれを空間に蘇生するのです。現実の音、記録された音、エンジニアの感性、美学、哲学、技術…… 再生装置の個性、使い手の感性、美学、技術…… そして、さらにその最終的な再生音を〇〇のような音、と言葉に置換するプロセスまで加えると、スタート地点にあった音楽の空間的客観性はどこに行ってしまうのでしょうか? まして音楽は主観的内面性の極致の表現、なのですからやっかいです。たとえBook of Velocitiesのように抒情性をそぎ落とし、思考が停止する寸前の軋み音のような世界であっても、それがまさに演奏者の主観的内面性の極致そのものとなれば、聴き手はそれに応じた反応を自然にしてしまうものだと思われます。

 事の推移を単純に『情報量』という観念で切り取ってしまうと、2006年9月に録音されたこのアルバムの再生音は整理された世界、ということになるのでしょう…… デジカメの画素数の話にかぶってきそうですね。そう、写真の世界についていえば、単純にただひたすら画素数(情報量)が多いほど良い、と決めつけてしまうようなものではないでしょうか。むしろそうとは言い切れない、他の要素(レンズの味わいや、シャッターを切る人の感性など)が大きく影響してくるはずです。ですから、再生音楽おいても情報量がすべてだ、と断じることにはある種の危うさがあるのでは、というところに思いが至ることになります。

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